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2017年2月

日本人であることは恥か誇りか

福島県の災害から県外に避難している子供たちが、またイジメにあったと報じられる。

昨日のニュースなどは、ただ福島出身であるというだけで、大学の講師が授業中に嫌がらせをしたというもの。
授業中に講師は、教室の電気を消して、「放射能を浴びているから、暗闇で光ると思った。」と言ったらしい。

あの日本を揺るがした大惨事、負けるな日本、いまこそ絆を、とエールの木霊(こだま)したひととき。その真芯にいた被災者たちが、同じ日本人からいじめを受けている。

日本って、最低の国だな。もし、ぼくが、遠い外国から、この報道を知ったなら、ぼくは、日本にいなくてよかったな、と思っただろう。日本人ってのは、世界の中で、最低の国だな、と思っただろう。
いや、実際、ここ日本にいる僕は、日本人として骨身にしみる思いで言うよ、
『日本人ってのは、ホント、最低だな。』

あまり多くの見聞はないが、いじめと言うのは、世界中にあるらしい。
なぜ、いじめはなくならないか、
それは、立ち向かうべき大きな課題だろう。
『命を懸けて答えを出すのは、戦う相手が強いから』だ。
(泉谷しげる『なぜこんな時代に』より)

イジメを苦に、自ら命を絶つ、
こんな胸を締め付けるニュースを何度も聞いてきた。
イジメは、学校ばかりか、大人たちの職場へも広がっているという。
それは、人間というものに、もとから備わった性質なのか。
戦争がなくならないように。
『僕らは知りすぎてる、なぜ人が人を殺すのかもね』
(『また会おう』吉田拓郎

人というもの、完璧な神様には及ばないものだ、というところは異論のないところだろう。
それでも、イジメや戦争が心苦しいのであるならば、それを何とかしようとするのも、また人間なんだろう。

何年か前、魚に詳しい「さかなくん」が、とある新聞の取材で、こんなことを言っていた。
魚なんかを水槽に入れて飼おうとするとき、その狭き水槽の中で、よくイジメめいたものが起こると言う。
それと同じように、学校で起きるイジメの要因のひとつは、現実の社会に比べて、その教室の中は、狭苦しく、閉じられた空間であることか。
その空間だけが世界あるかのように考えてしまい、その外側に、圧倒的に多彩で広大な『世界』があることを忘れてしまう。そして、歪んだイジメのような行為に至ってしまう。
以上がさかなくんの説である。

僕はその説になんともすんなり納得できるものがあった。

いま、福島にかかわる人の、そういった報道から思うのは
災害の風化である。
それでも、放射能だとか、記憶に残っている部分もありつつ、
それが現実に何を突きつけているか、とか、
本質的なことの風化は、まぎれもなく始まっている。

いつまでも傷を残さず、癒そうとしていくのもまた真実。
だけど、忘れちゃいけないこともある。

がんばれ、日本!
と、国の内外から沸き起こったその声のあて先が『日本』であったことを思えば、
あらかに傷の癒えきっていないこのとき、そのいじめが日本の中で、日本人の手でなされていることを看過できない。

2017.2.22

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