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2016年10月

「歩きスマホ」はやめましょう

『歩きスマホ』は危険であるから、止めましょう、ということなんだな。
近年、日本では、これが結構トレンドだ。

諸外国でも、同じなのか。
日本が特に騒いでいるのか。

ひと昔前、外国から来日した方々の言い分で、
「日本の標語の多さに驚く」、という話を聞いたことがある。
『黄色い線の内側に‥‥』
「駆け込み乗車は‥‥』
『車内での携帯電話の‥‥』
等々。

これが特に日本的だとしたら、なぜだろう。

●まず、そういう注意を喚起しないと、人々はすぐ堕落するから。
●あるいは、そのマナー等を知らない?

そういう注意を書くことによって、マナー等を守る人が増えてくるのか

では、逆に、諸外国で、そういう注意書きが少ないとしたら、なぜだろう。
●彼らが自立していて、注意は必要ないか
●あるいは、そう表記があっても、なくても、守らない人の数は変わらない、という認識か?

こんな話も聞いた。
日本人は世間を歩くとき、ちょっと安心しきっていて、
自分で自分の身を守る、という自覚が薄いのか。

車道を横断しようとしている老人の方々の中に、
「止まるのは車の方」と、鼻から高をくくっている感じも多い。

盗難にしても、日本人は、危機感が薄い。
テーブルや椅子の確保のために、平気で荷物を置いてゆく。
ひとつは、やはり、「治安のいい国」ということもあろう。

さて、では『歩きスマホはやめましょう』と言われて、
どれだけの危険が回避されたのだろう。
または、言われないと、そのことに気づけないのか。
『歩きスマホの危険』は、本人以外にも及ぶ悪行だが
自分自身の危険性も大きい。

スマホ自体、人間史上なかったものだから、対処にまだ戸惑っているのかもしれない。

とはいえ、r『歩きスマホによって、身に危険が迫る』ことに気づかない、としたら、
ちょっとおかしくないか。
これは、「生命体」としてどうなんだろう。
「生き抜く力」が足りないと言えないか。

そういう世話を焼かれないと、人というものは生活できない存在なのだろうか。
それでいいんか。

 2016.10.21

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詩作『わたしの仕事は生きること』

  『わたしの仕事は生きること』

あなたの仕事は?
と問われれば
わたしの仕事は生きること。
がんばって
ちゃんと生きているから、胸を張る。

休むことなく出勤し、
朝の光とご挨拶
今日の仕事も頑張るぞ
息も抜かずにやり抜くぞ
夕陽に見送られるまで

ただ息をして、モノ食べて
それで終わるのは、仕事じゃない
この肉体に精神に
どれだけ酸素が必要か
どれだけ栄養必要か
よく見極めて、咀嚼(そしゃく)して
じっくり吟味して、取り入れる
そのことをちゃんと、思いやる

この世に生きるということは
この世に触れるということで
この世に吹かれるということで
この世に汗するということで
この世を踏みしめるということで
この世に命を投げ入れる、ということ。

生きるはわたしの仕事だから
手を抜くも、リキむも、自分次第
それはわたしの仕事だから
それでわたしは評価される
報酬が決められる
きっとわたしが認知され
きっと蔑(さげす)まれもする

あなたの仕事は?
と問われれば
わたしの仕事は生きること
ちゃんと生きてるつもりだよ
だから、しっかり胸を張る

胸を張るのが私の仕事

 

2016.10.21

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『無言館』に行ってきた。

長野県は上田市にある『無言館』というところへ行ってきた。
もうひと月になるだろうか。

それがどんなところか、噂には聞いていた。
第二次大戦中、絵画の勉強をしていた学生が、戦争に召集され、若き命を散らしていった。
その作品の一部を収集している美術館である。

1474076430261 さて、その旅は、それを見に行こうという志の人たちの、バス一台の小旅行であった。

帰路のバスの中で、ありがちな、感想を順番に述べてゆくシーン。
ボクは、こんな風に述べたように記憶する。

今回は、初めての訪問だったけど、『無言館』がどんなところかは、噂で知っていた。
さて、それを見て「やはり命を奪う戦争は悲惨だ。平和な世界を求めたい」というのでは、あまりにも教科書通りでしょう。

で、
実際に無言館に入っていくと、左の壁に、まず、館長のお言葉。この美術館収蔵の絵を収集した方でもある。
彼の言葉の中に、確かこんな表現があった。

「当時絵を描いて、それを学んだりしていたが画学生にとっては、絵を描くことは、命の燃焼、至高の歓びであったでしょう」

これこそ、求めていたキーワード。

なぜ若くして死んだ彼らの絵が訴えるか。
彼らは、夢半ばで死んだから?
将来有名な画家になったかもしれないから?

そうではなく、
彼らが命を燃焼していた、至高の歓びの日々を断ち切られたからだ。

戦争さえなければ、それでよいか。
戦争のない日々だけが求められるか。
それは単にひとつの条件に過ぎない。

平和の日々の中で、ボクたちは命を光煌々と燃焼するのだ。
画学生の絵たちは、その瞬間を切り取って、そこにある。

例えば歌の好きなボクなどは、歌が好きな若者と交流したりする。
歌い続けるのか。辞めるのか。
例えば、野望を持っているものなどは、志は叶わぬかもしれない。
しかし、今日この時点で、歌うことに至高の歓びを見いだせていれば、
重要なのは、将来の夢がかなうか否か、ではないのは明白なことだ。

その無情な歓びを自身は満喫し、
きっと親なども、小言を言いながら微笑ましく思い、
命を与えた創造主などがいれば、彼もきっとご満悦なんだろう。

絵はもともと『無言』。歌とは違う。
その無言の中で形ある絵は語り続ける。
ボクもそれに共感できる歌を、いつも携えていたい。

   2016.10.20

 

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神経症と時間軸について (覚書(おぼえがき))【長文注意!!】

先日、SNSFacebook)へ、コメントとして、

「神経症の原因のひとつは、肉体的な病状もあるが、同時に自身の中の『時間軸のゆがみ』ということがあると思っている」

と書いた。
それについての問い合わせがあったわけでもないが(())
覚書(おぼえがき)として、少し書いておきたい。

この文章の根拠については、ボク自身の経験がほとんどで、他人の症例を参考にしたわけではない。
しかし、主治医と相談しながら、薬の摂取をやめることに成功し、6年が経過する今、覚書としてここに記す価値はあると思っている。

ボクの病名は「統合失調症」というもので、この病気の症状の一つに「幻聴」といったものがある。
「聞こえるはずのない声」が「聞こえて」しまう。

もうかなり回復期に入っていたのかもしれないが、幻聴との「闘い」において思い出すのは、その幻聴がどこから聞こえくるのかを、よくよく聞いてみること。
すなわち、だれか他者が自身の外から語りかけているのか、はたまた自身の中からなのか。

横道にそれるかもしれない」が、
「自分」とは、いったいどこまでの範囲のものか。
いつか書店で見かけた本は『自分と世界の境界』という風なものだった。
そんな本も存在するくらい、この種の命題は簡単なものではないと思う。

「テレビに心を奪われる」というような表現があるが、それは「まるで自身の魂が、肉体を離脱して、テレビに飛んで行ってしまうようなニュアンスである。
あるいは、「雲のさまに魂を奪われたような気持ちだ。」という表現も、
「雲」という他者に、魂を持っていかれたようだということだ。
そのとき、まるでテレビや雲も、自分の一部であるかのごとくである。

また、
食べ物の摂取や呼吸。
明らかに他者であった飲食物や空気は、その流れの中で、いつしか自分に変わっている。

自身に変わったのは、その流れの中のどの時点か。
ソシャク、消化、吸収などの、どの段階か。

 

そんなことまで考え併せてみれば、自分と自分を取り巻く環境とのボーダーというものは、普段はさほど自覚されていないだろう。
いわゆる『健全』な精神であれば、その思いが、雲と雲の合間や、宇宙空間をさまよおうが、それはそれで、素敵なことなんだろう。

さて、病中において、もし、自己の枠がはっきり意識されていて、明らかに、幻聴が自分自身から生まれているということに気が付けたら、これは、幻聴に対する闘いにおいての『ほとんど勝利』なんだろうと思う。

まあ、それを初歩段階として、
まず、幻聴自体、自分で無意識な感じで生み出していると確信できれば、
次に「無意識の声」が生まれくる家庭に着目したい。
何らかの文脈をもって、それらは生まれくるに違いない。

深層意識というものは、まさに『深層』というごとく、意識上には表れにくい。

しかし、ある意味「訓練」のようななかで、深層に近づくことができるようになると考える。その無意識の深層のテーマは、だいたいこうだ。

「いかに自分が気にしている弱点を突くか」
「そういうセリフ(幻聴)が効果的である『舞台』が整う瞬間を見逃さぬよう、そのタイミングを窺っている」というか、あるいは「自分自身で、これもたぶん無意識に、そのセリフの似合う舞台を整えてしまっている」のだろう。

それらは、すべて自分自身がなしていることである。
「誰かが自分のことを噂してるんじゃないか」
「ちょっと聞いてみよう。なになに」

「ほらやっぱりだ。あんなことを言ってる。」

このような流れ(文脈)こそ、先に記した「ゆがんだ時間軸」の一例だ。
つまり、「幻聴」にさいなまれる患者は、自身によって、幻聴の舞台をセッティングしては、自身でせりふの脚本を書くのである。

そして自分の時間軸でそれを遂行し、完璧なまでの自己攻撃を成し遂げる。

ボクらの「時間」は、「待って」いれば、無意識が幻聴を浴びせくる。
だから、そのまえに、自分の時間を揺り動かして、自分の『意識的』な意思による時間軸の前進をするべきなんだ。

 

プラス思考、マイナス思考などという表現があるが、
その種の、思考タイプの違いというものがあろう。
極端に言えば、
悪い方、悪い方へと転んでいこうとするタイプ。
あるいは、愉快な方へ、愉快な方へと転じてゆくタイプ。
幻聴などは、前者だろうが、
幻聴を打ち砕くための最終的な段階は、
自身の時間軸の中で、幻聴が生まれくるのを待つようなスタンスでなく、
別の、生き生きとしたシナリオに塗りかえてやろう、ということだ。
『訓練』等によって、自身の深層心理を見えやすくして、その闇に光を当ててやる、自身の命の躍動を注ぎ込む。
「誰か、私のことを噂してる」
という思い付きに対し、
自分というものの境界を自覚し、
ほんとうに実体のあるはずの噂の主()はどこか、と自身の外部に耳を澄ませる。

すると、その主(ぬし)自体がねつ造だったと気づく。自身によるねつ造だ。
あるいは、その幻聴を呼び込むシナリオを、常に別件の愉快で積極的なものと入れ替える。
愉快なこと、積極的なこと。
夢のこと、楽しいこと、おいしいこと‥‥
幻聴のシナリオのみを待たなければならない必要はない。
無限のシナリオが可能だろう。
それが無限の未来ということ。

とりあえず、覚書。
特に「幻聴」ということでまとめたが、ほかの諸症状にも、あてはまることは多いと思っている。

 

ロシアの文豪、トルストイにこんな名言があるそうだ。

『進むのは我々の方だ。時間ではない。』

我々が進もうが、時間が進もうが、同じことなんだろうが、

何も存在しない世界でも、そこに時間は流れるか。流れても、流れた証拠がつかめるか。

 

われわれの意識というものは、進ませる意思がなければ「次」には行けない。
それが『我々が進む』ということ。
ただ時間の流れに任せて‥‥

ということもあるだろうが、「停滞は後退」という言葉もあったが


 「進み続けた」人生でありたい。


 

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日本国首相のスタンスとして

先日のこと。
国会の予算委員会で、沖縄の基地問題の質疑応答時、
ある議員さん(失念)が、
「基地の騒音が増えて、授業中にうるさいと感じた、という生徒が多い」
このことにつて、首相の見解を求めると、安倍さん、歯切れ悪く、
「騒音などの被害がなくなる方向で、努めていきたい」と言う。

「歯切れ悪い」というのも、このとき、ちらっと安部さんが匂わせるのが、
「アメリカの基地を受け入れる以上、多少のリスクは覚悟するべきだろう。」
という姿勢だ。
基地の面積は減少傾向にあるのだから、悪いことばかりを引っ張り出すなよ、
何でもすべて、万々歳とはいかないさ。
というニュアンスがひしひしと伝わってくる。

基地の面積が減るのはもちろん歓迎だが、
何のために基地を減らしたいかと言えば、
ひとつは住民の生活を圧迫するからだろう。
騒音という圧迫が残りつつ、あるいは増えている中で、
「基地の面積が減った」ことを功績にできようはずもない。

まことに、その通り「努めて」もらいたいのは当たり前。
だが、なんとも『危機感』がない。

次代を担う、日本の子供たち、基地の騒音が授業中うるさいと言っている。
日本の首相として、このことに『危機』を感じないのだろうか。
ちょっと、他のこととは違うはずだ。

もちろん、今の日本の立場上、アメリカの基地を国土に置くという方策を認めるとしても、
ボクらの日本を引き継いでいく者たちが、
「勉強中、うるさいです」と言っているのだ。
ちょっと、平然と「努めていく」程度の心象か。

まあ、大人たちは子供たちに未来を託す、というが、
日本国総理大臣は、自身の国の子供たちの学びが阻害されて、それほど心は揺れないか。

まあ、「うるさいと感じる」ことの頻度とか、時間の長さのデータはなかった。

でも、その辺はどうなのか、総理の方から聞いてほしいくらいの問題だ。

もちろん、沖縄住民が騒音に悩むことは、少なくなっていってほしいし、総理もそうおっしゃる。
しかし、「学校の授業中、勉強していて、うるさい」ことの危機感を感じないようでは、
安倍さんの評価を、かなり下げざるを得ない。

ボクはね((笑))。

 

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ずっと空ばかりを

空の様子は、10月になるころから大きく様変わりする、と聞いたことがある。

「天高く、馬肥ゆる秋」というが、空の深さが増して、高く思えるのだろうか。

ユーミンの『ベルベットイースター』の中では、「空がとっても低い、天使が降りてきそうなほど」とうたっている。 イースター(キリストの復活祭)は、春のことのようだ。

寒い季節になると、星がきれいに見えるともいう。
寒くなると、地熱などで発生する水蒸気が少なくなるため、水分を多く含む空気が揺れて、遠くのものをゆがめることがなくなるからだそうだ。
ちなみに、「星が瞬(またた)く」その理由は、空気による光のゆがみだそうだ。
これは科学的な理由であるが、幻想的な理由は別にあろう。

アラーキーという写真家がいる。
たぶん今もご健在と思うが、本名は荒木経惟(あらきよしのぶ)さんとおっしゃる。

丸渕眼鏡と鼻の下のひげで、特徴のある風体をしていらっしゃる。
彼の話で、どうしても忘れないのが、「空の写真」である。
荒木さん、奥様が亡くなったとき、しばらく、空の写真ばかり撮っていたそうだ。
おそらく、一眼レフや、大仰な取り換えレンズでなく、コンパクトな軽量なカメラだった気がする。
ふとカメラを向けて、パチリと撮る。見上げて、パチリ。また見上げて、パチリ。

その話から伝わりくる、言葉にはなららぬが、なんとも鮮やかな心模様。
とても強く共感できる思い。

きっと構図とか芸術性ではないものが、そこに写っただろう。
空を映したいというよりは、彼の気持ちが、空に放り投げられた。

芸術とは、時にそんなものかもしれない。

 2016.10.7

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