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『透明人間』は存在し得ない

数年前に読んだ文章だが、それによると、「『透明人間』というものは、理論的に存在不可能」だそうだ。

まず、透明であろうが、不透明であろうが、人間たるもの、感覚があるべき。
透明な身体について思えば、
透明な視覚器官には、何も映りえない。つまり、「見える」ためには、「光がレンズを通じて網膜に刺激として到達」しなければならないが、視覚器官が「透明」であると仮定すると、それが何か光を捉えることは不可能だという。

同じように、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、も不可能であろう。

このことは、ただのSFの検証にとどまらず、とても興味深い示唆を含んでいるように思う。

簡単に言えば
「透明な自分には、世界は感じられない」ということ。

自我、自身、自覚、意思
そういう「自分たる構成物」をしっかり所持しないと、
「世界」というものを、明白に認識できない。
ということだと思う。

それが、ひいては、自分自身が「生きている」という実感を薄めることにもなろう。

「透明人間になれたら、こんなこと、あんなこと、したいなあ。」
と思っても、いざ透明人間に「自分がない」なら、
こんなこと、あんなこと、したって、楽しくない。
楽しむ自分がいないんだな。

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コメント

ソリタさんの言う通り「透明人間」は理論的に不可能です。

ソリタさんの言葉をそのまま返すようで申し訳ないのですが、透明人間になれば、目・網膜までも透明になるわけで、結果、何も見えなくなるのです。

よく漫画で

「透明人間になって女風呂に忍び込んで・・・」

なんてありますが、網膜まで透明になっているから何も見えないわけで、女の裸をウヒヒ・・・なーんてウソなのです。

なんだか男性の夢を壊すようで申し訳ないですけど(笑)

「透明人間」でワタシが知っている面白い・・・と言ったら批判を買うかもしれませんが、アメリカの作家「ラルフ・エリソン」の作品で「見えない人間」というものがあります。

冷静・博識・理路整然・自己認識が出来ている一人の黒人少年が、当時のアメリカにおける過酷な人種差別の中で、主人公が自身のアイデンティティと社会での居場所を探す姿を、黒人特有の言葉遣いとジャズ的要素を盛り込んで描いた作品で、ラルフはこの作品で「全米図書賞」を受賞しました。

ラルフ自身はもう亡くなっているし、いつの時代の作品だったかも忘れてしまいましたが、まだまだ「人種差別」がひどかった頃の作品で白人からしてみれば、黒人は「見えない存在」=「透明人間」だったわけです。

なんだかまた話が逸れたような気もしますが、人が「無視する」というのも、無視された人にとってみれば「透明人間」みたいなものなんですね。

そう考えるときちんと自分の「存在・居場所」をアピールし、みんなから「見える」人間でいたいと思う今日この頃です(*^ω^*)

以上、由伊でしたっ☆彡

投稿: 由伊 | 2013年11月15日 (金) 10時28分

> 由伊さん

なるほど。
白人にとって、黒人は「透明人間」だった。

とても興味深い視点ですね。

これをボクの意見と、コラボするなら
黒人は、人間として生きる実感を制御されていた、というところでしょうか。

まず、人種差別からは「自由」でありたいですね。
ブルーハーツの「青空」にも、「生まれたところや皮膚や目の色で いったいこのボクの何がわかるというのだろう」という歌詞が見られます。

アメリカに連れて行かれた黒人は、ブルースやロック、ジャズの誕生や発展に、とても欠かせない存在でした。
彼らの悲しみ、ぼくらの悲しみ、というのは「『本来の人間』というものになりきれない」切なさでしょうか。

若いころ、「自己実現」という言葉が、いっときキーワードでしたが、
きっときっと、本来の人間になれれば、そこに理想郷もあるかもしれませんね。

投稿: そりた | 2013年11月18日 (月) 18時32分

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